2008年01月03日

手塚 治虫(てづか おさむ)さんは初期のみおさむしと読ませていたらしい

手塚 治虫(てづか おさむ)。初期のみおさむしと読ませた。本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、医師。大阪府豊中市に生まれ、兵庫県宝塚市で育つ。医学博士の学位を持つ。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。日本のテレビアニメの先駆者、漫画の神様と呼ぶ者もいる。

医学生時代から、漫画家として活動を始める。漫画家という職業が社会的に評価が大変低かったこともあり、医師との二足のわらじをはくことも考えたが、母の「好きなことをやりなさい」ということばで専業漫画家の道を選んだエピソードは有名。ただしこの他に、担当教官に医者よりも漫画家に向いていると言われた、血を見るのは苦手だった、などといった話も伝わっている。

1947年に発表した『新宝島』は、漫画に映画的スペクタクルな表現を導入した先鋭的な作品で、藤子不二雄、石森章太郎(後に石ノ森章太郎)ら後進に極めて大きな影響を与え、現代日本における漫画・アニメの基礎が築かれるなかで大きな役割を果たした。

風貌や実績から温厚で人格者というイメージがあるが、石ノ森章太郎や大友克洋ら若い才能に対し、敵愾心を燃やす一面を見せたとも言われている。その他、いかにも漫画的・人間的なエピソードが紹介されることもある。

松本零士など後進の漫画家などの客人に、いたずらでチョコレートうどんを食べさせたことがある。
締切前に担当編集者の目を盗み、映画鑑賞のためなどと称して度々逃亡している。阿蘇山にまで逃げたことがある。
深夜、「メロンを買ってこなければ続きを描かない」などと担当編集者に無理難題を言い出した(当時、コンビニエンスストアなどは無かった)。
寝ているところを編集者に叱責されると、「寝ていたのではない。横になって疲れをとっていただけだ」と言い張った。
上記のように、担当の編集者からすれば目に余る行動も多かったらしく、当時の担当編集の中には手塚の人間性を厳しく糾弾する例も見られたようだ。手塚は依頼された仕事をほぼ断らずに受けていたし、編集者たちも、新雑誌の創刊毎に「彼が誌面にいないと売れない」という理由でいくつも掛け持ちさせていた。
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