2008年03月31日

オブ・フェームを模して、セントルイスやトロントなど、他の都市でも類似したウォーク・オブ・フェームが作られている。

【豆知識】
1960年2月9日、女優ジョアン・ウッドワードが最初の星を獲得した。
文芸分野で初めて星を獲得したのは、TVドラマ「スタートレック」の原作者、ジーン・ロッデンベリーである。
アポロ11号の宇宙飛行士のための丸い星がハリウッド・バイン(交差点)の四方にある。
カントリー・アンド・ウェスタンの歌手ジーン・オートリー(Gene Autry)が5部門における功績により、5個の星を獲得したのが最多である。
人間でなくても受賞することがある。ミッキーマウス・くまのプーさん・ビッグバード・名犬リンチンチン・名犬ラッシーおよび先述のゴジラなどである。

2008年03月29日

「八月の狂詩曲」は黒澤明監督作品です!

『八月の狂詩曲』(はちがつのラプソディ、Rhapsody in August)は1991年の日本映画。村田喜代子の原作を黒澤明が映画化した。

ストーリー
ある夏休み。長崎市街から少し離れた山村に住む老婆・鉦の許に4人の孫たちがやってきた。都会の生活に慣れた孫たちは田舎の生活に退屈を覚えながらも、長崎の街にある戦争の傷跡や鉦が話す昔話を聞いて、戦争に対する考えを深めていく……。

エピソード
「アメリカのがないね」
この映画の撮影時にはなかった平和祈念公園のアメリカからの慰霊碑だが、1992年10月にアメリカのセントポール市から寄贈されている。この慰霊碑への寄付を募るために「八月の狂詩曲」上映会がセントポール市で開催された。また長崎市長からこの件に関して黒澤監督へ礼状が送られてきた。

なお、誤解されることも少なくないが、クラークが「すみませんでした」「私達悪かった」と鉦おばあちゃんに謝っている場面は、アメリカ人であるクラークが原爆投下を「すみませんでした」「悪かった」と謝罪しているわけではない。「私達」とは、「鉦の兄であるハワイに移民した錫次郎やクラークらの一家」のことであり、「すみませんでした」は「鉦おばあちゃんの夫が被爆死したことを知らなかった」ことに対してであり、「悪かった」のは鉦おばあちゃんが「長崎の人」なのに、夫の死因に思いが至らなかったことである。(Rhapsody in August - Wikipedia英語版の記述参照)

アリの行列を撮影するための待ち時間が余りにも長かった事から、撮影終了後にリチャード・ギアは「もうアリとは共演しない」と言い残して帰国した。

監督 黒澤明
製作 黒澤久雄
脚本 黒澤明
出演者 村瀬幸子
井川比佐志
音楽 池辺晋一郎
撮影 斎藤孝雄
上田正治
編集 黒澤明
公開 1991年5月25日
上映時間 98分
製作国 日本
言語 日本語

2008年03月26日

「マール・デル・プラタ国際映画祭(アルゼンチン)」の解説です!

マル・デル・プラタ国際映画祭(Mar del Plata International Film Festival)は、アルゼンチンのブエノスアイレス近郊の港町マル・デル・プラタで開催される映画祭。1954年に設立され、毎年3月に開かれるFIAPF(国際映画製作者連盟)公認の国際映画祭である。


【概要】
1970年以来、軍事政権下のために中止されていたが、1996年より再開されている。
来場者数は例年約140,000人、プロデューサーや配給会社、ジャーナリストたちも世界中から集まるという。

【賞】
最優秀作品賞のほかに監督賞、男優賞、女優賞、審査員賞、脚本賞、イベロアメリカ作品賞などの賞がある。


【最優秀作品賞受賞作品】
1959年 『野いちご』:イングマール・ベルイマン (スウェーデン)
1960年 『橋』:ベルンハルト・ヴィッキ (ドイツ)
1961年 『土曜の夜と日曜の朝』:カレル・ライス (イギリス)
1962年 『I Giorni Contati (限られた日々)』:エリオ・ペトリ (イタリア)
1963年 『Az Angyalok Földje』:ギオルギ・レーヴェース(György Révész、ハンガリー)
1964年 『Gli Indifferenti』:フランチェスコ・マゼリ (イタリア)
1966年 『¡At' Zije Republika!(共和国万歳!)』:カレル・カヒニャ (チェコスロヴァキア)
1968年 『俺たちに明日はない』:アーサー・ペン (アメリカ)
1970年 『Macunaíma(マクナイーマ)』:ホアキン・ペドロ・デ・アンドラデ (ブラジル)
1996年 『El Perro del hortelano(農場の番犬)』:ピラール・ミロ (スペイン)
1997年 『タンゴ・レッスン』:サリー・ポッター (イギリス・フランス・アルゼンチン)
1998年 『Abr-O Aftaab』:マハムード・カバリ (イラン)
1999年 『ジェラートの天国 As Bodas de Deus』:ジョアン・セザール・モンテイロ (フランス・ポルトガル)
2001年 『To ja, zlodziej』:ヤシェック・ブロムスキ(Jacek Bromski、ポーランド)
2002年 『Bolívar soy yo』: ヨルヘ・アリ・トリアーナ(Jorge Alí Triana、コロンビア・フランス)
2003年 『Separações』:ドミンゴス・デ・オリヴェイラ (ブラジル)
2004年 『Buena vida delivery』:レオナルド・ディ・セザーレ(Leonardo Di Cesare、アルゼンチン・フランス)
2005年 『Le Grand voyage』:イスマエル・フェルーキ (フランス・モロッコ)
2006年 『Noticias lejanas』:リカルド・ベネット (メキシコ)
2007年 『M』(M):ニコラス・プリヴィデラ (アルゼンチン) ※山形国際ドキュメンタリー映画祭2007コンペティションで上映

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年03月25日

「わが青春に悔なし」監督 黒澤明

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監督 黒澤明
製作 松崎啓次
脚本 久板栄二郎
出演者 原節子
大河内傳次郎
藤田進
音楽 服部正
撮影 中井朝一
編集 後藤敏男
配給 東宝
公開 1946年10月29日
上映時間 110分
製作国 日本
言語 日本語

『わが青春に悔なし』(わがせいしゅんにくいなし)は滝川事件とゾルゲ事件をモデルとした黒澤明監督の映画である。GHQの奨励したいわゆる民主主義映画の一つである。なお、本作と同時期に同じ題材の映画が企画されていたため、「新人監督をつぶすつもりか」との労働組合の圧力を受けて、黒澤の意図に反して映画後半の展開を大幅に変更せざるをえなかった。 農村シーンに込められた異様な気迫は、この圧力に対する反感があったからと黒澤は述懐している。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2008年03月09日

乳がん撲滅チャリティ 蜷川実花が撮った10人のヌード 10WOMEN

女性ファッション誌「GLAMOROUS(講談社刊)」の創刊3周年特別企画「乳がん撲滅チャリティ 蜷川実花が撮った10人のヌード 10WOMEN」の記者発表会が行われ、ヌードモデルを務めた秋吉久美子、オセロの中島知子らが出席した。愛犬とのペアヌードを披露した秋吉は「夫に相談したら、すごくいい考えだと言われました」と、3度目の結婚生活が順調であることをうかがわせた。手でバストを覆った“手ブラ”ヌードの中島は、露出はどこまで大丈夫なのか聞かれると、「皆さんがよろしければ“熱帯雨林”の方も…」と笑わせた

2008年01月03日

手塚 治虫(てづか おさむ)さんは初期のみおさむしと読ませていたらしい

手塚 治虫(てづか おさむ)。初期のみおさむしと読ませた。本名:手塚 治、1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、医師。大阪府豊中市に生まれ、兵庫県宝塚市で育つ。医学博士の学位を持つ。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。日本のテレビアニメの先駆者、漫画の神様と呼ぶ者もいる。

医学生時代から、漫画家として活動を始める。漫画家という職業が社会的に評価が大変低かったこともあり、医師との二足のわらじをはくことも考えたが、母の「好きなことをやりなさい」ということばで専業漫画家の道を選んだエピソードは有名。ただしこの他に、担当教官に医者よりも漫画家に向いていると言われた、血を見るのは苦手だった、などといった話も伝わっている。

1947年に発表した『新宝島』は、漫画に映画的スペクタクルな表現を導入した先鋭的な作品で、藤子不二雄、石森章太郎(後に石ノ森章太郎)ら後進に極めて大きな影響を与え、現代日本における漫画・アニメの基礎が築かれるなかで大きな役割を果たした。

風貌や実績から温厚で人格者というイメージがあるが、石ノ森章太郎や大友克洋ら若い才能に対し、敵愾心を燃やす一面を見せたとも言われている。その他、いかにも漫画的・人間的なエピソードが紹介されることもある。

松本零士など後進の漫画家などの客人に、いたずらでチョコレートうどんを食べさせたことがある。
締切前に担当編集者の目を盗み、映画鑑賞のためなどと称して度々逃亡している。阿蘇山にまで逃げたことがある。
深夜、「メロンを買ってこなければ続きを描かない」などと担当編集者に無理難題を言い出した(当時、コンビニエンスストアなどは無かった)。
寝ているところを編集者に叱責されると、「寝ていたのではない。横になって疲れをとっていただけだ」と言い張った。
上記のように、担当の編集者からすれば目に余る行動も多かったらしく、当時の担当編集の中には手塚の人間性を厳しく糾弾する例も見られたようだ。手塚は依頼された仕事をほぼ断らずに受けていたし、編集者たちも、新雑誌の創刊毎に「彼が誌面にいないと売れない」という理由でいくつも掛け持ちさせていた。
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